全身から薫る花の温もりに、ふとカミーユは目を覚ました。とめどない倦怠感と充足感からか潤む視界を天井へ上げれば、金のゆらめきが見えた。それがあまりにきれいなので、カミーユは手に取ろうと腕をあげ…パシャンと跳ねあがった水音、彼は己が湯船に浸かっていることに気がついた。 「え…なんで」 「カミーユ」 「え…大尉?」 「寝ぼけているのか、他に誰がいる?…ほら、湯冷めする…腕を下ろしなさい。」 私の髪もな、と続けられ、カミーユはそこで己が夢うつつに握ったものがシャアの前髪であることに気がついた。 「あぁッ、すみません!」 「ああ、かまわんさ。」 「あの、僕はいつから…?」 気がねしなくともいいと、シャアはカミーユの頭を撫でた。 「途中で気絶したからね、君は。」 「途中で気絶…」 彼の言葉を反芻して、カミーユはふと指を折り数え始め…折った小指が再び立ち上がるやいなや、全身がズルリと水没した。 「カ、カミーユッ!」 湯にあたったか?慌てて体を引き上げたシャアの手を振り払い、またもや湯船に顔までつかろうとする彼は顔を真っ赤にさせていた。 「いいんです、このまま溺れさせてください…。」 「こら、冗談はよしなさい。」 「………自分が…恥ずかしくって、顔向けできません…。」 「……そうか?…私は満足だったがな。」 貴方はいいんでしょうがね、と、睨む緑青の眼は恨めしくぼやいた。 しかし、その裏でカミーユの心はホッとひと安心に息をついていた。先ほどの乱交は頭に痛いが、こちらへむけるシャアの穏やかな表情を見れば、どうでもいいさと思ってしまえる。彼の機嫌がなおって、本当によかったと思う。 (身も心も食われるかと思った…冗談じゃなく…。) それほど本気の交歓は、痛かったのだ。 己が呼ぶ名を変える度に、男は手管を淫らに変えていく。たった一人の腕というのに、カミーユは次第に何人もの腕の中で転がされていく感覚に襲われ、息を荒げていった。その末に、気絶ときた。 今までの交わりはどれもカミーユの体を第一に思って触れられてきたのだと、翻弄するシャアの指によって、カミーユは嫌というほど思い知らされたのだ。 穴があったら入りたいほど、恥ずかしい。 (日頃は優しいのだけれど……やっぱり、変態だ……。) (これだから、男の欲望ってのは…!) 同性ゆえに分かり過ぎる答えをこれ以上深く考えずに湯へ流そうと、カミーユは務めた。情事の記憶と共に。 「…結局………僕はどこまで『貴方』を呼べました?」 「ん?」 「その…か、回数じゃなくって!名前ですよ!アンタの名前!」 「ああ、あれか。……一つだけ言い逃したな、君は。」 「エ。」 (ということは…) ドキリと爆ぜた胸を慮ってか、シャアは笑って、「もうあんな子供じみた真似はしないさ」と固まったカミーユの肩を叩いた。 「それに、君が知らなくても無理はない…エドワウというんだよ。」 「僕が、呼び忘れた?」 「そう、エドワウだ。」 「エドワウ。」 「…ああ。」 頷いた青い瞳をジッと見つめ、(似合わないな)とすぐさま考えてしまったカミーユは、(さすがにそれは失礼だろう)と慌てて取り繕うように口を開いた。 「あの、エドワウ……なんて言うのですか?」 「ん?」 「苗字…ファミリーネームは…。」 「ああ…マス…エドワウ・マスだよ。」 (ああ、でも……) 「エドワウ・マス…やさしい感じがします。」 「くすぐったいな…。」 フッと照れたように目を細めた彼を見て、カミーユは頬を緩ませた。 「わかります。自分の名前を急に誉められたら、へその辺りがくすぐったいですよね…」 (でも、そんなやさしい名前が似合う人になったら…) 「……カミーユ?」 (なってくれたら………) 「…エドワウ…好きだな、僕は…」 「……どうした…眠いのか?」 身を包む湯の温もりがやさしくて、トロンとぼやけた目で彼を捕らえた。 「大尉は…いやですか?…嫌いですか?」 「…嫌いではないよ」 「そう……」 全身の力を脱ぎ捨てたカミーユの肢体が滑りそうになった。シャアは慌てて彼を抱きかかえ直し、動かせない手の代わりに頬で、濡れたかの髪を撫でつけた。そして、その仕草にクッと苦笑いを零す。 まるで、犬猫のような愛撫。霊長類のするスキンシップではないな…そう、彼は感じながらも、眠るカミーユの髪に自ら頬を寄せた。香りが移り、移られていくようにと。 「カミーユ…寝たのか…」 (宇宙は好きだが…地球も悪くない。) そう思えるのも、ひとりではなく、肌合わすふたりでいるからだ。 真空の闇では、声も香りも息も肌のぬくもりも味わえない。生身でいられない。宇宙は海と同じ、眠りと同じ、独りの世界へ戻ることと同じ、そして死ぬことと同じ。また元の一つへ、世界の構成要素へ、材料へ戻る、帰還するのが宇宙であって、遥か古代からの故郷であり。 しかし、地球は……。 「いい子だ…ありがとう、」 住んでみてわかった。争わず、ただ風を吸い込み、怒鳴らず、ただ地を歩き、憎まず、ただ彼を慈しむことで、味わった敗北感。 あぁ、なんて馬鹿だったのだろう。なにも応えやしないのだ。 地球は『家』なのだ。 闇に浮かぶコロニー達と同じ、巨大な家だったのだ。 だから汚されるし、壊されたりもするし、その影響で逆に中の住人が酷い目にあったりもする。けれども、家は家なのだ。誰の侵入も受けつける家なのだ。 だから、それを守ろうと励む者はおり、主導権を握ろうとする輩も出る。それは、この家に住む者全ての権利と義務のように見えて……実のところ、「家」にとってどうでもいい話だったのだ。 …シャアは、クッと喉元で笑った。揺れた髪の先から、涙のように雫が垂れる。 (『母』なぞ…『大いなる母』なんて、誰がいったい声を張り上げ始めたのだ!) 地球は、ただ『地球』なのだ。擬人化されては困る。生物ではないのだ。いや、生きているやもしれないが、それを人間の尺度で推し量るものではないだろう。 そのようでは…人類は愚行を重ねるだろう、シャアは直感した。この腕で眠る青年、カミーユを長年苦しめてきた「カミーユ」に込められた他者からのレッテルや、ニュータイプに未来を期待した己と同じ愚行なのだ。地球への讃辞と罵倒なぞ、地球は望んでもいない。 あまりにそこに生きる者達の思い出がありすぎて、誤解したのだ。 愛しさと憎さあいまった地上、しかし、ありのままに、ただ家が壊れないように生きればよかったのに、それができずにいた人類はソラにまた家を建てた。 「…私も、また」 誤解した一員だった。 ---- アースノイドは、地球のことだけを考えていればいいんです!宇宙へ上がったこともないのに、安々とコロニーを羨んだり、コロニーへ手を出さないでいただきたい! コロニーもコロニーだ。身の回りの問題を対処せずに、地球へ感傷を抱いてどうなるんです!スペースノイドは地球を捨てるべきとまでは言いませんが、地球に甘えたって、宇宙では生きていけやしないことはわかっているでしょう?空気も水もない、荒野ですらない、地の底さえない、絶望して隠れる場所さえ与えてくれない、宇宙とはそういうところなんです。全てが自由にあるから、無慈悲な場所なんです。 地球がなにしてくれるっていうのですか?助けてくれるのは、人間同士でしょう?その人間同士が、地球なんかのために諍い起こしてどうなるんです? 支離滅裂ですよ。 ひと同士が仲良くなれば、そのうち地球はよくなりますよ。…結局のところ、戦争の火種はいつも地球のせいなんですから。 地球は、ただの星ですよ。石っころです。 地球なんかの為に、人を殺したり、人が死ぬなんて、ナンセンスだ。 …シャアは、零れる笑いの雫を抑えることができなかった。喉奥で抑える度に首が揺れ、ポタリポタリと風呂湯へカミーユの肌へ滴り落ちていく。 懐かしい痛みの思い出だった。 サザビーの脱出ポッドを、アムロによってアクシズに叩きつけられ、そのまま彼と共に地球へ落下するはずだった。落ちる中、シャアは薄れゆく自我でそれらを見た…緑色の光の帯と、浮上する不可解な感触と……着るはずのない軍服を纏った彼の差し出す掌と、紅いレウルーラ。 幻かと思ったものだった。 彼の演説…叫びは、地球の為にと敵味方のモビルスーツが共同してアクシズを押し上げている中で届いたから、『地球なんか』と語るその弁にはさぞや誰しもが驚いただろう。…しかし、シャアも、アムロも、それに構うほどの余裕はなかった。 ただ、シャアだけは、旗艦で昏睡しているはずの彼が目覚めたことに動揺を覚えた。末期の際に幻視した彼は泣いていた。たいして面と向き合ったこともなかったと過去を振り返りながら、彼をいつも泣かせてばかりだな、とシャアは自戒した。そして、激しい落下速度に肺を圧迫されながら、すぐにむきになる泣き顔が少し似ていたな、だから泣かせていたのかと己の業を改めて実感していた。 その時だった。 ---- 地球が大事なんじゃない。 生きているやつがそこにいるから、地球が大事なのでしょう? アルティシア。…確かに、そう呼んだ。声は返らなかったが。 アクシズ落とし作戦の直前、カミーユはこうも言っていた。朦朧とする意識の中で、しかし、しっかりとシャアの腕を掴み離さぬと力を込めて、彼はとぎれとぎれの意思で語りかけた。 『大事なものがひとつもないっていうのなら、僕が降ります。そうすれば、少しは……優しくしてくれますか?』 誰に。誰に、優しくしろというのか。それもまた、あの時は返らなかった。 だが、死の足音が近づく中で、シャアは「そうだな」と頷いていた。 「少しは…手を緩めるだろうさ、カミーユ……。」 摩擦熱で蒸せかえるコックピット。パイロットスーツの襟を緩めて、誤解続きな人生だったと己を振りかえった。父の理想、父の死、戦争、ニュータイプ、ララァ、アムロ・レイ、ガルマ・ザビ、ハマーン・カーン、レコア・ロンド、エゥーゴ、ネオジオン、ガンダム、地球……君が死んでしまったと誤解した「私の地球」はかくも醜く、汚泥に満ちた井戸であった。 (君がいる地球ならば、少しはきれいに見えるだろう。だが、そのせいで君が地球に縛り付けられるのは我慢ならなかったのだよ…。) それに、もはや遅いのだ。作戦は決行された。 そして、シャアとナナイが予期したように、アムロとブライトが願ったように、それは失敗した。実際のところ、アクシズが地球に落ちようと落ちまいと…どうでもよくなっていた。ただひとつの誤算、嬉しいことに、カミーユが生きていた。それを知り、半分、どうでもよくなっていた。意固地に動いていたのは、責任と焦燥とアムロとの決着をつける為だけになっていた。ナナイへ語った理想など、とってつけた夢物語にすぎない。 地球なぞ、どうでもよくなっていた。 君が。君がソラにいる。君は生き残る。 かつて見つけた、ひとつの可能性。 未来を預けたかったのだ。 ザビ家を葬り、ジオン公国の亡霊と地球連邦の腐臭に辟易していた頃に、出会った。カミーユ・ビダン。見つけた強い眼差しと希望ある若さに、賭けてみたくなった。カミーユのニュータイプ能力がどこまで伸びるか、育てることに愛しさと満足を覚えた。心血を注ぎ込んだ。それこそ、彼を守るために身を盾にもした。できそこないのニュータイプであったこの身なぞ、惜しくもないと思ってもいた。 しかし、Zガンダムは、コロニー・レーザーに残り続けた。 その狂ったように死に急ぐ戦いぶりに、内心、裏切られたとクワトロは思いもした。…誰の為に彼がそうしているかも気づかず、クワトロはエゥーゴから離れた。 気づいた時は、なにもかもが遅かった。 彼は戦いを否定し、罠と知っていても敵の兵士にも情を向ける。心弱さともとれる、しかし、けして真似のできない優しい情念に、アムロと違うニュータイプの可能性を目の前に曝され、衝撃を受けたこともあった。 カミーユは、その能力に反し、戦うべき人間ではなかった。 狂う直前の彼の瞳は、恐怖を必死で押し殺し、ニュータイプは戦争の道具ではないと諭していた。そして、肥大する能力と戦争の軋轢に潰された心が流した血は、シャアの足元へ届くのに半年もかかった。遅すぎた後悔を嘲笑うように、ダブリンへコロニーは落ち、その日を境にシャアはクワトロの名を希望と共に捨てた。 あの少年は、ただ、カミーユと呼んでほしかっただけだった。 なんの混じりけもない目で、愛してほしかった。認めてほしかった。 その為に、せいいっぱいの努力を重ねてきたカミーユを… (クェス・エア) 不意に沸いた少女の名前に、シャアは黙した。強引な纏わりつきをいいようにあしらってしまった少女だ。寂しい目をし、面白いように情を投げ出し、よく笑う子供だった。アムロに指摘されるまで、彼女が己に父性を求めていたなどと気づきもしなかった…クェスはいつもシャアの恋人であろうと背伸びをしていたからだ。 正直、戦争の指揮で忙殺されていたシャアにとって、彼女のニュータイプの資質は目を見はるものはあったが、彼女の自己満足にはわずらわしいと感じていた。ナナイのように、休まりはしない。カミーユのように、道化を捨てて自己をぶつけあうような論議を交わせる相手でもない。 それでも、彼女を傍で甘やかせていたのは…彼女の我が侭が、多くを語らぬあの少年の本音のようだと感じとっていたからだった。 少年は、優しくしようにも手を振り解き、噛み付いてくる子犬のようだった。躾てみると、忠実に道を歩いていった。ふと目を離したすきに、逆らう牙が生えていた。甘やかそうとしても、鳴きもしない。なのに、寂しい目をして、シャアの後ろを歩いてくる。可愛げがあるのか、ないのか、よくわからぬ少年だった。数年ぶりに再会して、懐かしさと愛しさあまりに傍へ置いたはいいが、彼は頑なであった。 その分、クェスが叫んだ。傍にいて、私を見て、誉めて、偉いでしょ。 傍にいて、私を見て、誉めて、頑張る私は偉いでしょ。 だから、私を見て。 『大佐ァッ!アタシ、ララァの代わりなんですか?!』 任務中、無理矢理飛び込んできたクェスの絶叫を部下たちが唖然と聞くなか、シャアは縋る彼女の眼差しに、少年期の彼を見た。かつて、心を疲弊していった彼の瞳孔にララァの面影を見たように。 クェスはララァではなく、戦わぬカミーユの身代わりだった。意図してそう振舞っていたから、彼女からそう責められても一向にかまわなかった。だが、クェスはララァではない。誰も彼女になりえない。ララァは優しく包む愛を持った、愛しい女だった。安らぎと共に彼女に期待した、ララァのニュータイプの力は… 「あぁ…」 ニュータイプではないと頑なに拒んだカミーユへ、期待してしまった。愛なく。 あの少年は、ただ、カミーユと呼んでほしかっただけだった。 なんの混じりけもない目で、愛してほしかった。認めてほしかった。 戦う理由のない彼が摩り替えた現実。ニュータイプなどというカテゴリーで認知されるのではなく、彼自身の努力を誉めてほしかったのだろう。 求めたものは、ただそれだけだったものを…潰したのは、誰だ? …答えは返らない。彼の親はふりかえらず、シャアは誤解し、アムロは間違え、ハマーンは撥ね退け、ブライトはうなだれ、ファ・ユイリィは泣いた。ジュドーは怒りに燃えた。死者は多くを語らぬ。 今。カミーユは、もはや、答えを求めていなかった。過去の狂った彼もまた、答えなど求めていなかった。はなから責めもしなかったのだろう。 あの少年は、ただ、カミーユと呼んでほしかっただけだった。 ニュータイプだの、エースパイロットだのと期待を込めて呼ばれたいわけではなかっただろうに、期待される行為の重荷を誰よりも承知していたシャア自身が、彼へ手酷い仕打ちを仕向けていた。 白紙の上で彼を呼んだ者は、フォウ・ムラサメぐらいではないか? (ああ、彼女もいるな…。) クェス。平然と彼に懐き、彼もまた彼女を妹のようにあやしていた。 シャアは顔を覆った。 (なぜ、悔やみは後にくるのだ…) 突き放したこの手がまた、彼を抱くなどとは……かくも運命の賽は皮肉と悲喜の目に満ちて…そして、時に甘い祝福もあるものだと。 しかし、今もこうしてカミーユを腕に抱きながらも、シャアには信じられないことがあった。 何故、彼が己にこだわるかということだ。 その問いを逆にすれば、他愛もないのだが…シャアにとって、カミーユは唯一無比の理解者だから、『赤い彗星』の二つ名に惑わされずまっすぐに己と向き合う気概を持つ人間だからだ。シャアと知っても、反撃を恐れず殴りかかる無鉄砲な気性に惚れたといっても過言ではない。 しかし、彼が抱く己の価値観はどうにも掴みあぐねてしまう。 かつての部下と上官。役には立たなかったが、彼の相談相手にもなった。だが、それだけで同性相手に肌を許せるだろうか? (カミーユは…私が名を呼ぶことで嬉しがるが…。) カミーユが己を追いかけてきた理由は、今もって知れない。 彼と過ごして数年経つが、一度たりとも口にしたことはない質問だった。 訊ねることが怖かった、ともいえた。 |
訊ねる代わりに、何度も彼を抱き、彼を試した。 (それは、甘えなのだろう。) シャアは、手に持つモニターボードを静かに眺めていた。 湯浴みの途中で眠ってしまったカミーユをベッドまで運んだ際に、枕元にあったそれがふとシャアの目に止まったのだ。書きかけのまま放置していたのだろうか、彼が持ち上げると揺らぎを感知して待機中の画面が切り替わった。 画面の文章は論文の下書きかと思えば、それは、カミーユの日記らしき記述があった。シャアは、電源を切る為にボードを持ち上げたことさえ忘れた。 『 昨日の昼、イーノが診療所へやってきた。いつもの定期報告調書のチェックを俺にしてもらうためだ。…正直、俺は彼の生真面目で優しいところに苛立ちと悲しみを覚える。彼のよい部分とは思うし、好きなのだ。…しかし、連邦の観察官が監視対象へレポートを見せるというのはどうだろうか。けれども、彼が自分の任務に不満を抱き、それでも我慢して務め続けてくれることは、俺たちにはありがたいことだと思う。 』 日記は昨夜書いたにしては長すぎて、シャアは「まさか朝まで書いていたのではないだろうな…」とボードのメモリ量を調べた。案の定、昨夜付けのテキストファイルは論文並みのボリューム量になっていた。 (今朝の不安定さは、これが原因か…?) そういえば、彼は徹夜で論文を読んでいたと話していた。あれは嘘なのか。 シャアは戸惑いつつも、ボードの画面をスクロールした。個人のプライバシーを暴く趣味はないが、カミーユの不安を取り去ってやりたい気持ちを優先させた。 (なにより、あれの見せる涙は痛々しい。) シャアは、美しくも胸に刺す涙を己の前にむざむざ曝させた因子の名を苦々しく呟いた。 「…イーノ、か。」 イーノ。イーノ・アッバーブ。ジュドーの旧友であり、シャアが抜けた後のエゥーゴで働いていた少年だったと聞いたことがある。そして、ロンド・ベル隊所属でもあったらしい。ならば、直接の面識こそないが、むこうはシャアをよく知っているだろう。 (地球連邦軍のスパイが、カミーユに会いにきたか…。) シャアの認識は、私情で少し歪められている。 正確には、イーノ・アッバーブは、戦後、宇宙軍から地球勤務の特務機関へ出向していた。その任務は、地球へ降下したスペース・ノイドに含まれる危険分子の探索及び監視である。『軍のスパイ』と表すよりも、むしろその逆である。 凡庸な彼が特殊任務に就いた謂れは多々あるも、専任対象が『カミーユ・ビダンと目される人物』のみであることから、出向を働きかけた人間が軍のエゥーゴ派だったことは明らかだ。憲兵が家を強襲したことは一度もないからだ。 そして、彼と共に生活するシャアの存在は静かに黙殺されている。 (月とは破格の扱いだな…。) 中立の月で疎まれ、地球では憎まれるべき古巣に守られている暮らし。 引きつった笑みを浮かべ、シャアはボードを弾いた。 『 その時、イーノが「戦没兵士の慰霊式が近々行われる」と俺に伝えた。思わず、俺は首を傾げた。だってそうだろう?そういう大掛かりな式典が行われるのならば、日取りはきまって終戦日か開戦日か…ともかく歴史に残るような日にちとするのが普通だ。しかし、俺の記憶の中ではめぼしいものは見当たらなかった。 すると、彼が教えてくれた。やや呆れ気味だったが、ブレックス・フォーラ准将が地球での会議後にティターンズの連中に暗殺された日だと話した。 ブレックス・フォーラ准将。…その名を聞いた数分、俺はそれが誰だかわからなかった。イーノが添えた肩書きを耳にしなければ、本当に俺は思い出せなかっただろう。 エゥーゴの代表者だった人だ。ジャブロー降下作戦からしばらく地球へ留まっていた俺と、宇宙にいたその人との接点はすごく薄かった。彼が俺をアムロさんの身代わりとしか思っていなかったように、俺にとって、その人の印象はとても薄いものだったからだ。 そのブレックス准将が暗殺された日が近いらしい。俺は覚えていない。その時は、ティターンズに占拠された月基地の奪取計画で忙殺されていたからだ。ブレックス准将が死んだことは、宇宙へ戻ったクワトロ大尉の口から聞いたことだけは覚えている。 俺はよく泣くし、よく怒る。けれども、それはジュドーやあの人を相手にする時だ。よく泣くくせに、俺はブレックス准将へ涙がこぼせなかった。感傷さえ沸きおこらなかった。案外、冷たい人間なんだなと俺はその時の自分をそう思った。 軍人なんて、いつか死ぬものだと…俺は思っていたからだろう。 当時印象深いことといえば、准将が亡くなってから大尉の周囲が忙しくなったということだ。准将の代わりにクワトロ・バジーナがエゥーゴの代表になった。なんだか夢物語だと思ったけれど、艦内を見回して、それが一番現実的だとも子供の俺でも納得できた。納得できなかったのは、クワトロ大尉本人だけだろう。 もしも…。 悪い癖だと、いつも思っている。いつもそう思っているのに、俺は考えてやまない。もしも、あの時。もし、あの時ああやっていれば。あの時、あの道を行かなければ。 あの時、俺がグリーン・オアシスへやってきたブライト艦長見たさにベイブリッジへ行かなければ、ジェリドに出くわすこともなかったし、ガンダムMK=2を奪うこともなかったし、親父やお袋が死ぬはめにも陥らなかっただろう。エマさんがティターンズから離れることも、レコアさんがエゥーゴを裏切ることも、フォウ・ムラサメが俺を庇って死ぬことも、ロザミィが殺されることも、サラやカツが死ぬこともなかっただろうに…………イーノやジュドーもシャングリラでジャンク屋稼業をしていただろう……だめだ。これでは、だめなんだ。 これじゃあ、シロッコと同じだ。自分ひとりで世の中を回しているわけじゃないんだ。俺が意思をもっているように、他の奴らも考えて行動しているんだ。俺の勝手ばかりじゃない、多くの人間が動くから、その動きで世の中は波立つんだ。ただ立っているだけならば、水面に波紋はない。ただ息をしているだけならば、人は罪を犯さない。だけど、それだけでいいのだろうか? 頭が痛い。 ブレックス准将が生きていれば、もっと地球連邦政府はいい人になっていたかもしれないし、シャアがアクシズを落とすこともなかったかもしれない。でも、それは予測に過ぎず、俺はそう信じるほどには准将を知らない。そうなればいいなと勝手に理想を押しつけているだけだ。 昔のことを掘り返して、なんとかできないだろうかと考える…後ろばっかり振り返る自分は、ひどく惨めで卑怯でかっこ悪い。これが優柔不断なのだとはっきり意識しているから、かえって手におえない。 俺のこういうところを、あの男は嫌っているんだろう。だから、サジェストはそこへつけこむのだ。あいつの皮肉は正論すぎて、耳に痛い。 頭が痛い。色々なことを考えすぎて、頭の中がいっぱいだ。 時の流れは、いつも、最悪な方向へと向かっている。願いとか祈りや希望なんてものを嘲笑うように、無慈悲な運命を叩き付ける。 振り返れば悲しい現実ばかりなのに、どうしてか、それでも、その中でも俺は笑っている自分を見つけだすことができた。思い返しても、おかしな話だ。狂うほどに悲しかったことばかりなのに、それでも思い出の中、俺はそこかしこで楽しそうに笑っていたことがある。月でハロを拾った時、アストナージさんといっしょに整備したことやZガンダム、地球でカラバといっしょにいた時、シンタとクムと遊んだことや、フォウやロザミィと出会えたこと。 なんだ、そんなことかと今なら見えてくるものがある。人は悲しいだけじゃ生きられない動物なんだ。だから、他人から酷い奴だと罵られそうなほど忘れっぽい動物なのだろう。…だけど、それだけだろうか? アムロさんは、昔、ベルトーチカさんのことを「オールドタイプだから、昔のことを簡単に忘れられる」と言った。でも、俺はそうすぐに立ち直ったとは思えなかった。悲しい記憶を消せば、忘れれば、そうすぐに笑えるのだろうか? だったら、全部投げ出して狂った俺は、すぐにでも笑えるものだろうに……笑えやしなかったし、手足も動かせなかった。あちこちの情報を一方的に吸い込み、吸い込むだけで頭がいっぱいになったあの一年…理解できたことは、人は悲しいことも楽しいことも合わせて生きて、それで帳尻があう動物なんだってことだ。 悲しいことも嬉しいこともない混ぜにされた日常こそ、俺たちの心だろうと思う。 やはり、俺は、まだ子供なのだろう。齢はもう大人だけれど、建設的な言葉がうまく見つからない。全部壊れて、粉々になって、後は組み立て直すだけだろうと思っていたのに、俺はあの時とちっとも変わってない気がする。ジュドーのこと笑えないや。暗くて嫌になる。あけすけなジュドーの明るさを半分でも貰ったらどうにかなるんじゃないかと思ってみたりもするが、それもナンセンスだ。 やっぱり徹底的に壊れないと、俺はキチンとならないのだろうか。 』 「冗談ではないぞ…ッ」 読みかけのボードを投げ出し、シャアは後ろを振り返った。 ベッドの中で、カミーユは心地よさそうに軽い寝息を立てている。幸せな寝顔に、怒りの矛先を見失ったシャアは肩から息を吐いて、彼の額にかかるひとすくいの髪をゆっくり払った。 「壊れては…たまらんぞ、私は……もう、」 たわいもない愚痴だろうと、頭ではわかってはいる。しかし、彼に意図がなくとも、シャアにとってその言葉は物騒すぎていた。 『 窓の外が白んでいる。ぐだぐだ考えているうちに、朝になったらしい。 結局のところ、どうしたって時は流れている。太陽と星の流れ、俺にはどうしようもない。 頭が痛い。言葉を口にしないまま考えすぎると、激しい頭痛が襲ってくる。機械がショートしてしまうみたいだ。俺は医者だから、対処法はわかっている。ストレスというものは愚痴るか、それか、吐くように書き出して、思いを外へぶちまければいいのだ。堂々巡りのような辛い言葉が並ぶ。しょうがない。悲しいことは外へ吐き出したいし、嬉しいことはいつまでも内の中に留めておきたいんだ。 だから、俺はあまりジュドーや大尉のことを書いたりしない。 今は他に考えることがあるだろう? 軍の式に参加するわけにはいかないし、…ブレックス准将の墓参りもできそうもない。だから、代わりにイーノに献花してもらう花を考えなくちゃいけない。あと二、三時間も経てば大尉も起きてくるだろうし、大尉に相談してみようと思う。 ひとりで思い悩むとあまり良いことは思いつかないから、誰かと相談するといいだろう。けれど、大尉はあれで俺よりも深く悩みすぎるところがあるから、あまり頼りすぎてもいけない。そこの匙加減はちょっとむずかしい。俺は子供じゃないんだしな。 変な日記。 子供だとか、子供じゃないとか、都合のいいことばかり掲げている。ほんとうに俺って、くだらない厄介事まで抱える奴だ。ファから貧乏籤引いているって言われてたけど、本当だな、まったく。 』 「あれだけの演説をしていて、よく言う…」 ベッド際の椅子に腰を下ろしながら、シャアはクスリと笑った。思っていることをそのまま書き出しているからだろうか、深く読み進めるうちに、彼はまるでカミーユが目の前で愚痴を言い始めたような気になった。 叙情ある口語体で綴られる独白を目で追いながら、シャアは慰めるようにカミーユの髪を撫で続けた。カミーユが見せた今朝の苛立ちと甘えぶり、徹夜明けの重い瞼と情後の涙は、これが原因だったのだと彼は悟り始めた。 (そして、私の感傷もな…) 痛い過去を深く掘り下げるには、それなりのきっかけがある。 シャアが悔悟の情に浸ったのは、カミーユが拘る名前へのコンプレックスが引き鉄であった。しかし、無意識下で慰霊式の情報に刺激されていたことも否めない。その情報は、カミーユがイーノ・アッバーブから知らされるより前にシャアは把握していた。そして、彼が憂慮し記述した『もしも』は、一度ならず幾度も考えたものだとシャアは胸の中で呟いた。 ブレックス・フォーラが生きているエゥーゴの未来…。 フォウ・ムラサメが生き残った先の未来…。 「しかしな、カミーユ……」 薄いカーテンが世界の光を遮断していた。絶え間なく降り注ぐ雨粒の激しさは、窓を通してシャアの声を妨げようとする。まるで、天がカミーユの耳を塞ぎ、彼の言葉からその身を守らんとすように。 響かせるつもりはなかった。しかし、シャアは眠るカミーユの首元へ顔を寄せた。彼の首を舐め、頬を寄せ、彼の寝息を吸いとって、シャアは深く彼を抱き締めた。反動に揺れた腕がみせる頼りない振り子を見つめ、夢に酔うカミーユの額をシャアは親指の腹でそ…となぞった。 「しかしな、カミーユ。世界は、そう悲しいことばかりではない…」 かつて全てに絶望した己が何と言うか…シャアは自嘲した。そんなことは、彼はとっくに承知しているのだ。だからこそ、彼はこの世界へ戻ってきた。 椅子から腰を上げ、シーツの上からカミーユの横へ寝そべり、シャアはボードの日記をロールした。そして、現われた次ページの冒頭を、青い双眸は食い入った。 『 俺は強くなりたい。大尉が俺を頼れるほどに、強くなりたいと思う。 』 薄暗い部屋の中、液晶画面の明かりは蛍色の温かみを彼へ見せつけ、惑わせる。困ったように眉を顰める彼は…その唇は満足げに緩んでいた。 文章は、まだまだ続くらしい。シャアはボードを持ち上げるようにゴロリと寝返りを打った。背中にカミーユの体温を感じる。左肩を下に敷く姿勢は、軍人故だ。非常時に利き腕を身動きしやすくする為だ。だから、二人が眠る位置もおのずと決まっていた。その癖はかなしいかな、死ぬまで身に染みついているだろう。 雨は室内の空気を冷やし、背に当るカミーユの体温が心地よかった。 「………、」 文章を流し読みながら、背中から伝わる温もりにシャアはいつしかうとうとし始めてていた…時、ふと五感が冴えた。 (…………なんだ?) 横になった体勢のまま、シャアは視線だけを窓の外へ集中させた。さきほど一瞬だけ、規則的な雨垂れの音がかき乱された。下に何かがいたせいか?…車が走りすぎた音は聞き取らなかった。 (ならば、人か…!) 緊張が走る。静かに身を起こし、シャアはガウンを脱いだ。 「…ん?」 シャツに袖を通した際、まだその手にボードを握っていたことに気づいた彼は、読み残した内容を惜しそうに見つめ、それをそっと机へ置いた。 ベッドを振り返ると、カミーユは健やかな寝息を立てて熟睡している。外から感じる気配に敵意も殺意もないからだろうか、それとも疲労からだろうか、カミーユの持つニュータイプ能力が外部の気配に気取らぬ事態をシャアは軽く見過ごしはしなかった。 (なにより…私自身が邪魔されたくないと…この気配に感じている。) シャアは、袖口のボタンを留め、己の勘を信じた。 そして、部屋を出ようとして…が、今一度机に戻り、彼はボードの電源を入れた。汗で指を滑らせながら、シャアは画面に食い入った。外へ注意を払う気は焦るも、読み残した文章がどうしても気になってならなかったのだ。 グリグリと画面をスクロールさせ、すばやく目を走らせる。次第に、緊張に引き締まっていた唇が緩く綻んでいく。 『 あの人がなんと言おうと 』 最後の一文を読み終え、彼は柔らかな息を吐いた。 文は、書きかけのままで終わっていた。 がしかし、彼にはそれで十分であった。 その先はまず己が答えるべきであろう…シャアはベッドへ近づき、カミーユの額にかかる前髪をそっと撫で上げた。 「君と私の関係は、たぶん、そうなのだよ。…カミーユ。」 眠る頬へ軽く唇を押し当て、シャアは身を翻した。壁を通リ抜け、戸外の敵を見据える険しい鷹の眼差しに、数秒前に見せた優しさなぞ微塵もない。 滑らかに階段を降り、彼は速やかに玄関口へと急いだ。対抗する武器はカミーユの寝室にはもとから置いておらず、シャア自身の書斎にある銃は午後に手入れをしようと分解したままだった。 (手は山ほどあるさ…!) 戸外の気配は、彼の予想どおり玄関口へ近づいていった。相手よりも一歩先に辿り付いたシャアは、靴箱の戸を開け、奥深くへ腕を差しいれた。その指に固い物が触れたと思うや、シャアはそれ…靴箱奥に隠し置いた銃の安全装置を指でなぞり、確かめる。 「………まだだ、」 シャアは、独り言を呟いて気を落ち付かせると、唇を舐めた。いつでも撃てるように引き鉄に指を置くも、靴箱からはその腕を出さない。万が一、勘違いもあるだろうと彼は頭の角に思っていた。それでも、左手で靴箱の戸を盾のように開き持ち、右手に奥の銃を携えて、シャアは扉の前で静かに構えていた。 急患ならば、引く。不審者ならば、撃つ。間違いは侵さざるべきだろうが、一部の隙も与えるわけにはいかない。守りたいものがあるからだ。 「…まだ、まだだ…。」 全身で威嚇し、全力で捕らえ、握り潰し、そして命を曝け出し、運命を賭ける。 潰すも、愛すも、徹底的に。 それは、カミーユが脅えながらも受けとめようと心に決めた…『シャア』と呼ばれた男の、彼本来の気性であった。 |
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