キュキュッ、バシャン! 「とぉーちゃっくっと!」 足ブレーキが歩道の水溜りにはまったヘマは脇に流して、ジュドーは自転車にまたがったまま、ビデオの返却ポストまでにじり寄った。そして、袋を濡らしたまま入れるのも店員に悪いだろうなと、タオルで丁寧にぬぐってやる。しかし、天からはザアザアと雨降りやまず…「焼け石に水って感じもしなくもない…」などとぼやきつつ、ジュドーは三人分の返却物をポストへ投げ入れた。 「さぁーて、どこで雨宿り…ん?」 クルリと踵を返せば、いつの間にやってきたのやら、ジュドーと同じように自転車に乗って返却に来たらしい女の子がずぶ濡れの姿で立っていた。小脇に抱えるビデオの袋を服の影で雨から守っていたのだろうか、雨が染みこんだところをしきりにハンカチで拭いつつ、ジュドーの後ろで順番を待っていたのだろう。 「貸しなよ、お嬢さん。入れたげるよ!」 ジュドーの無遠慮に差し出した手を、一瞬、訝しげに彼女は小首を傾げた。 「え?」 「返すんだろ?入れたげるよ、ほら、貸して」 「あ…すみません…」 ちょこんと頭を下げて、渡した女の子の歳は十六、七くらいか。たっぷりと雨水を染みこませたワンピースが体にぴっちりと貼りついていて、線の細さを強調する。彼女が出掛けに薄いパーカーを羽織っていて正解だったと、ジュドーは思った。淡いクールブルーのワンピースは水に濡れ、貼り付いた肌の色を透かしこんでいたからだ。これでは胸の形さえもくっきりと浮かびあがってしまう。目の毒だ。 なによりも、彼女の髪型が昔のカミーユを思い出させてしまう。 「いいって、お互いさまだろ?」 手渡されたビデオの袋を手持ちのタオルで丁寧に拭い、ジュドーはポンと返却ポストへ入れ込んだ。いささか乱暴な手つきになってしまったのは、照れ隠しだったのだが、ドサリと店内へ落ちる音を確認した女の子は「ありがとう」とはにかんだ。…これまた、その瞳がよく似ていて…。 「お、おうっ!」 ぶっきらぼうに返すしかない赤面ものの純情さに舌打ちしながら、ジュドーは…(神様って、いるとこにはいるんだよなぁ)…などと間違った方向へ鼻をのばしていた。 戻りも、やはり例の信号は赤だった。しかし、行きとは違い、気楽な気持ちで信号待ちするジュドーは手元の時計をちらりと伺った。 開店まで、あと四、五分足らず。続々と店へ詰めかける返却者の影を眼の端で追いながら、同じ目的で他人同士が鉢合せするこの珍妙な巡り合わせを面白いものだと思い始めてもいた。 さて、ジュドーは帰りも再び交差点で捕まったのだが、手持ち無沙汰に胸ポケットの紙幣を広げたところで…彼の顎はおおきく垂れた。 |
「僕は…自分の名前が嫌いでした。」 またか、とシャアが半ば呆れたとしても仕方ない、彼の悪い癖である。 彼が『カミーユ』という女性的で優しいイメージを孕む名前に嫌悪を抱いていたことは、少年特有の反抗期ともとれる仕草ではあったが…まさか、二十を超えてもまだこだわっていたとは思いもしなかった。 シャアは、昔のカミーユ少年を宥めた時と同じように頭を撫でようとして手を伸ばすが、今のカミーユは逆らうように身じろいだ。彼を捕らえられずに宙を掴んだシャアの手は空しく主へ戻り、苛立たしく前髪を梳いた。 苛立ちは目の前の相手ではない、彼の名を呼べない状況のせいだ。カミーユが自身の名を厭っていようが、シャアは「カミーユ」の名を気に入っていたし、何度でも呼びたいのだ。 (……ん?…あ、ああ、そうか…。) そこまで考えて、ふと彼はカミーユが突然泣きだした訳を悟った。 (無理もないか…君が好んで呼ぶ名を本人から嫌いだと言われれば…。) その考えが伝わったかのように、今まで俯いていたカミーユの顔が上がる。 「今は好きですよ。」 ささやかな微笑みだ。彼は清々しく笑んだつもりらしい。しかし、シャアの眼からは、彼がせいいっぱいの虚勢を張っているようにしか見えなかった。 「カミーユって名前…諦めたようなものですけど、やっぱり、自分を嫌いになることは絶対にできませんからね。」 シャアは、その言葉にフォウ・ムラサメという強化人間の名を思い出した。しかし、彼が打ち明けた思い出話にその名前は現われてはこなかった。 「昔の…子供の頃の話です。俺、他人からカミーユと呼ばれることが嫌いで嫌いで仕方がなかった。どうしてだと思います?…みんな、からかうんですよ。俺の顔見て、『顔も名前も女の子なのに、身体は男で変だ』って。」 「………子供は残酷だからな。」 「ええ。子供のくだらない苛め方です。けれど、子供の世界はとても狭いものですから…そういった悪口も世間の常識まがいにまかり通ってしまうんですね。」 「大人になっても視野の狭い人間は、そこらじゅうにいるがな。」 さびしく唇を歪め、カミーユは「ええ」と答えた。そして、彼は天井へ腕をのばす。滑らかな肌につられて、シャアも顎をそらした。薄闇は、懐かしい宇宙の色を垣間見せた。 「努力しても自分では定められないものって、なんでしょう?」 「自分で…?」 「そうです。俺、名前と年齢だけは無理だと思います。どれだけ偽っても、結局は本当の意味で変わったわけではないでしょう?」 「耳に痛いな…」 シャアは、彼の視線からわずかに逸らした先で苦く笑った。それを見咎めて、カミーユは慌てて「そんなつもりじゃない」と手を横に振った。 「すみません、貴方を責めるつもりじゃないんです。…ただ、俺、名前というのは、結局のところ、人生最初のレッテルではないかと思って…。」 「レッテルか…。」 皮肉なものだな、とシャアは胸で呟いた。 (根の深いコンプレックスだ…本当に……。) 彼なりの哲学だろう。時に、ヒトは人生の大半を悩み解き続ける命題を抱えてしまうことがある。逃げ出せば、それはトラウマとなる。厄介なそれを、カミーユは幼少の頃に見つけたのか。 「顔とか…名前とかで『女の子』とからかわれることが嫌で、嫌で…俺、空手やホモアビスなんかやって、どんな奴よりも男らしいんだ、強い男なんだって、周りに知らしめてやりたかったんです。」 カミーユの独り言に、静かに耳を傾けていたシャアは違和感を覚えた。些細な動揺を察したように、カミーユの面が上がる。 「…逆なんですよね。」 声は静かだった。 「どれだけ男らしくあっても…女の子っぽい名前はその分浮いてしまう。逆効果だった。そして、余計にからかわれて…俺、こんなやっかいな名前をつけた両親を本気で憎んだこともあったんですよ?」 困ったように笑って古傷を暴く彼へ、シャアは掛ける言葉を失った。 「どれだけ努力したって、他人からつけられたレッテルは剥がせやしないんだ…。」 自嘲ぎみに笑むカミーユに、シャアは『赤い彗星シャア・アズナブル』の異名に振り回された半生を曝された気がした。彼の頬は熱くなった。 「でも、それじゃあ駄目なんだって、わかったんです。」 「何故だッ、」 「大尉?」 きょとんと見上げる眼差しに、シャアはハッと我に返った。小さく咳払いして、頬染める羞恥心を追いやった。 「いや…すまない、話を続けてくれ。」 (…他人の答えに依存してどうなるという!) シャアは、気の迷いにしろ、縋った自分を恥ずかしく思った。 「大尉、」 「な、なんだね。」 「守りたいものがあるなら、強くあろうとすることは自然ですよね?」 「あ…?…ああ、そうだな。だが、それが」 「それが、」 真摯な面持ちで見上げる瞳に引き込まれそうになる。 「それが、僕の理由だからですよ。」 |
帰りも雨振りやまず、ジュドーは寄り道せずにおとなしく家へ帰ろうとした。 あまり早く帰宅すると留守番組の二人の機嫌を損ねるのだが、かくも床下浸水のごとく尻にまで雨水が浸透した今、水浸しの格好で喫茶店に入る勇気はジュドーにはなかった。…まぁ、店内をびしゃびしゃに濡らして、好みのウェイトレスへ悪印象与えたくもないという下心も彼にはあったのだが。 …始めは、だ。しかし、出掛けにシャアから頂戴した『お駄賃』を信号待ちの間に見てからというもの、自転車は遅々として前に進まない。 語るに及ばず、誰かさんのプレッシャーである。 |
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そして、その誰かさんは、ベッドの上で顔を赤らめていたりする。 (私は口説かれているのか…?) いや、何をいまさらと、シャアは顔半分を掌で覆い隠し、照れをさりげなく逸らした。しかし、さりとはつゆ知らず、カミーユはたどたどしく言葉を繋いでいた。 「だから…自分を好きになっていこうって。自分を見つめておかないと、強くなりもしないと考え始めたんです。だから、僕の場合は…まずは自分の名前を好きになり始めることからだと思いまして…。」 長い講釈の間に、頬の熱も冷えたらしい。一途に語るカミーユの頭のつむじへ視点をそらして、シャアは肩から息を吐いた。 (私の期待が過ぎたか。) 油断すれば、苦笑が漏れてしまう。シャアは居ずまいを正して、 「他人が決め付けたレッテルだぞ?」 と、さきほどの意趣返しか、嫌味な指摘をする。 「う…そ、それはそうなんですけど!でも、俺は悪戯半分に親が名付けたとは思えないから、だから、好きになれると思うんです。」 「そんなものか?」 平然と突き放す問いを重ねるシャアに苛立ちを感じたのか、カミーユは拳を枕へ沈めた。 「だって、そうでしょう?!ピントがずれていたって、俺の親は親なりに考えてつけてくれたと思うから、それだけで、俺はッ!」 睨むように大きく見開いた緑青は、泣くかと案じたシャアの予想を裏切り、瞼の影へと覆い隠された。痛みを堪えているのか、震える瞼をシャアは瞬きせずに見守った。…彼が吐き出せなかった言葉は、シャアの胸には届いていたからだ。 (『愛されていたと思いたいから!』…か、) 「ああ…」 カミーユは額に手をやり、疲れたように肩を落とした。 「ああ…ダメだな、俺。こんなこと言うつもりじゃなかったのに…次々頭に浮かんだことポンポン言ってしまうから、絡まってしまうんだ…すみません。」 「あ、いや…」 「寒くありませんか?」 「…は?」 答えを待たず、カミーユは体を反らした。床に散らばった衣服の山へ腕をのばす彼の脇腹から首筋まで流麗なブリッジを、(器用なものだ)とのん気な感想を抱いてシャアは観賞した。 「ナンセンスだ。」 いつからか身についた口癖を吐き、カミーユの体がしなる。山の中からガウンを一着爪にひっかけたまま、シャアの懐へ飛び込み、その背を抱き締めるように緋のガウンを覆い掛けた。 「裸でポレミックというのも、色気のない話。」 「古代ローマ人の趣向だと聞いたことはあるがな。」 「ニホンでは『裸のつきあい』という言葉もありますけどね。」 顔を隠すかのように、彼はシャアの胸元へ頬をすり寄せた。 「……余計なことまで喋ってしまうから…僕は嫌だな。」 返事の代わりに、シャアは彼の背へシーツを掛けてやった。触れ合うところから、彼の心が伝わる。震えるほどに凍える痛み、どれほどの情を与えれば暖めてやれるのか。カミーユの首筋や背に彩る紅も、半時前に貪るように熱く貫いた下肢のまどろみも、かの眼差しを曇らす霧を払うことができないでいる。 空を切り裂いて、雨粒が大地に叩き落ちる。 雨音は二人へ、痛い宿怨を、甘い過去を思い起こさせた。 「僕の同僚に、同じような悩みをもっていたひとがいました。」 「…女の人です。彼女は、僕とは逆に男みたいな名前をもっていました。それで、すぐに僕らは判りあえた。彼女も、子供の頃から随分いじめられていたそうです。」 「彼女となら、昔の嫌な思い出も苦笑いで話せた。二人で笑って、よく言いました。『お互いの名前を交換したら、普通になれるのに』って。」 「……恋人か?」 「ちがいますよ、同僚だって話したでしょう?」 「けれど、その話になると締めくくりはこれで終わるんです。『好きな人から誉められたから、この名前は手放せない』って、彼女、そう言うんですよ、いつも。」 「それを聞くたびに『ああ、そういうことか』って、思いました。いつも。」 「好きな人に呼ばれる名に、悪い気はしない。…答えを掴めば簡単で、そして…すごくむずかしいことで…。」 「…嬉しいんです。」 「貴方と同じように、僕も、一時期、偽名を使ったことがありました。…でも、やっぱり本当の名前を捨てることはできなかった。愛着というのかなぁ…こういうものは……昔の思い出も何もかも捨て去るような気がして、嫌で……!」 シーツの下で、カミーユが軽く噎せる。背を宥めて、シャアは彼に続きを促した。カミーユの顔は見えない。胸にあたる頬と息遣いの熱さに、彼が興奮していることは知れた。…だが、泣いているのか、懐かしむ気持ちでいるのかは知れない。 「…エゥーゴにいた頃から、貴方に呼ばれることが嬉しかった。」 傷を受けたように、胸がはぜた。 「…君は、」 「貴方は僕を認めてくれました。子供だからとバカにしなかったし、ちゃんと僕の名前を、僕を見て、呼んでくれました。」 「………それは、他の者も」 「わかっています!でも、貴方に呼ばれると、ほんとうに僕を見てくれているのだなぁって実感できました。どんな用事だって構わなかった、貴方に僕の名前を呼んでもらえることは好きだったんです、クワトロ大尉!」 「……カミーユ…。」 「…けれど、僕が貴方を呼ぼうと…どう呼ぼうと、貴方に嬉しく感じていただけないことが…その…少し、辛くなってしまって、」 「カミーユ…?」 (ああ、) 「大尉は…いえ、貴方は『クワトロ』を嫌っているのでしょう?」 「カミーユ?」 「僕は、貴方を喜ばすこともできない。」 (ああ、また) 胸がヒヤリとする。カミーユから伝わる頬の熱に紛れ、針ほどの冷たさがスルリと胸を伝い降りていく。 (ああ、また君は無益な涙をこぼす。) 「君は、また自分を過小評価するのだな。」 シャアは、かの眼差しを曇らす霧を捕らえて、名を呼んだ。 「カミーユ。」 冷たく、愛しげに。慈しむように苛立ちを込め、霧の夢魔の名を。 |
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ジュドーが向かう場所は、道路を挟み、家と向かい合わせに建てられているアパートメントだ。そこには心優しい旧友が住んでいるはずで、ちょっと羽を休もうと彼は思った。 (けっして赤い奸計にはまっちゃいない)と、またもや念仏唱える意地の頭上へは、嘲笑の雨が怒涛のように降り注いでいた。 ジュドーは、懐にしまった高すぎる報酬に苦汁と涙を飲んだ。 貰ったお金を晴れの日に透かしてみれば、『早々に帰ってくるな』という魂胆がアリアリと見えるだろう。 (帰ったら、叩き返す!) それはもはや決定事項である。一抹の守銭奴が「そんな、もったいない!」とジュドーの欲望を揺さぶりもするが、男のプライドが今のところ勝っていた。 |
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無自覚に愛を囁く風を捕らえるにはどうすればいいか。 「なぁ…私の名は、どれだろうな?カミーユ?」 「わかりません……俺には…すみません…」 「いいさ」 「でも、ここにいる貴方はひとりですよ?僕は、いつも貴方だけを呼んでいるつもりです。」 爪をのばせば届くような距離で、鳥が歌う。 「………」 逃げ去る翼をもっているから、傷つけられる恐怖を背負わずに、謳う。 「…それではダメですか?」 翼をもがれる危険を知らずに、鳥は、いつもの場所へ。 「カミーユ…、」 「す、すみません!」 いつもの場所へ。 「君は…まったく…」 「すみません…強引ですよね、そんなの。」 「ダメだな。」 …ずっと、そのまま…気づかず、傷つかず? 「…あ…ハイ…。」 寄せる波が潮引く度に、もの悲しくなるのはなぜか。 「足りないな。」 「え…、」 「名前の四人分…しめてあと四回はつきあってもらうぞ、カミーユ?」 顎を捕らえると、カミーユはみるみるうちに目を見開き、赤面した。 「エ、エ、エ…ええぇッ?!」 「君がクワトロ・バジーナばかり可愛がるからだよ。」 「いつ可愛がったってんですか?!」 バタリと飛び起き、カミーユはサイドボードの時計を見た。あれから、三十分以上は経っている。 「ジュドー、ジュドーはまだ帰ってこないのか?!」 いつもならば正午すぎまで帰宅しないはずだが、今日は特別だ。外はどしゃ降りなのだから、絶対に寄り道しないで戻ってくるはずなのだが…背後にひそかにくぐもった笑い声がし、カミーユは振り返った。彼の口から「当分は帰ってこないだろうさ」と焦りを見透かされた返事がくる。 「酷いな、君は。雨を予期していたくせに、傘ではなくタオルを彼に渡すのだからな。…私がフォローしておいたよ。」 「え?」 いつ…と口にする間もなく、シャアは人差し指を立てた。 「運び賃。」 「あ!」 出掛けの一件を思い出し、カミーユはシャアへ詰寄った。 「いくら渡したんですか?」 「傘の一、二本、余分に増えてもかまわないだろう?」 (そういう問題でもないのだけど) 余裕のシャアへ対抗するように、カミーユもまた強気な笑みを返す。 「…残念でしたね。食い意地はってますが、ああ見えて、奴は守銭奴なんです。無駄金使うくらいなら、台風の中でもずぶ濡れで帰ってきますよ、きっと。」 しかし、それでも相手の優勢は覆らず、むしろ、カミーユは不利となった。シャアはクスリと笑って、「浪費家とは思っていやしなかったがな」と答えた。 「むろん、傘代だけじゃ彼に悪いだろう?着替えに服を新着して、食事と暇つぶしの映画代を支払っても、まだお釣りが出るくらいは渡したつもりだよ。」 と、シャアは今までずっと立てていた指一本を見下ろした。その視線につられたカミーユの喉がひくりと鳴った。 「い、一万…」 (たかが、ビデオ返却に…そんな大金渡すのか、普通?!) だが、相手は世間の常識とはかけ離れた世界で半生を過ごした男である。傭兵かと思いきや、時が時ならば一国の大公様なのだ。…庶民出のカミーユはガクリと肩を落として、恨めし気に毒を吐いた。 「ああもう…なんだってそう、貴方はジュドーに甘いんですか。」 「ジュドーに私が?彼に甘いって?」 「そうでしょう!いつもいつも小遣いあげちゃって…ジュドーばかりに優しいのだから…貴方ってひとは…」 膨れっ面を恥ずかしげもなく晒し、カミーユは肩ではねる髪をひと房荒く梳いた。まるで引き千切る勢いな彼の手をとり、シャアは宥めるように手の甲へ接吻を与えた。 「それは心外だな、カミーユ。君だけが特別のつもりだよ。」 それでも、カミーユの目は皿か、ガラスの糸のように細く冷ややかだ。 「じゃあ、ジュドーは特別のそのまた特別とでも?」 長年の馴れ合いでキザな言葉に免疫できたか、赤くなることもなくカミーユが返す言葉は辛辣であった。…が、それに答えるシャアも上手だった。 「……そりゃあ、私はトラブルを金か銃で解決する危険な男だからね。」 「え…」 乾いた声音に、ドキリとカミーユの胸が跳ねた。シャアは掴んだ手を大きく引き、彼を全身で捕縛するや、その耳元に抑揚なく歯を立て、脅える肌に低く吼えた。 「言ったろう?『欲深い男』だと…ふたりきりの時間を減らしたくはないからね、私は。…邪魔なものは徹底的に潰すのが、私流だよ…。」 自分を映すかの眼差しが氷のように薄い青だと、カミーユは感じた。 「…シャ、シャア…」 「では、カミーユ……まずは『一回目』からだ。」 渦巻くシーツ。手足を縫いとめられた肢体から吹き出る汗を赤い舌がザラリと舐める。荒れた感触に、ヒクリとカミーユの喉が鳴った。直感的に怖い。相手に目で訴えるも、それさえ嗜虐をそそってしまったのか、青い目が薄く細まるだけで乱暴な慰撫は相変わらずだった。 右膝を担がれ、安易に足を広げさせられる。股からドロリと情交の名残が流れ、踵に滴り落ちた。 (本当に怖いんだってッ!) 鷹の目のような、猛禽の鋭さからカミーユは必死で顔をそむけた。 「あ、あのッ!」 「…なんだね?」 肩を撫でられ、ゾワリと鳥肌が立った。悦くて、ではない。 (しまった!) カミーユは、胸の内で舌を鳴らした。バレている。絶対に、この人にバレた。 「お、怒っていません…?」 「どうして?」 平然と訊ね返す相手に、カミーユはきれいな答えを紡ぐことができなかった。安直に「乱暴だから」と答えて、更に機嫌を損ねることも得策とは思えなかった。 だが、押し黙る彼を無視して、シャアの慰撫は肩から脇腹へ滑り降りてくる。掌の感触から少し遅れて舌が肌を湿らす。濡れた先からヒヤリと体温が奪われる、冷える。カミーユは、ブルリと肩を震わせた。悪寒に近い悦楽がじわりと足首を掴んだ。その感じ方に、カミーユは思わず自分はマゾヒストなのかと疑ってしまった。 「た、大尉…ッ、」 これ以上の侵攻はたまらない。彼は、体を深く暴く二の腕を掴み、震える視線でシャアを見上げた。アイスブルーの視線がまっすぐカミーユを貫く。瞳が日頃よりも薄い色だと思うのは、そこに交歓の熱情を感じないからか?…戸惑った末に視線を脇へ逸らせたカミーユの耳たぶを、シャアの牙が噛み付いた。 「私は『シャア』だよ、カミーユ。君がそう呼んだじゃないか?」 「え、」 意地悪く、シャアの肩が揺れて笑う。 「なんだカミーユ、シャアに抱かれたくて、私の名を呼んだのだろう?」 「そんな…?!」 「『シャア』でも、『クワトロ』でも、私は一人なのだろう?カミーユ。」 (そんなの、揚げ足取りだ!) 「…でも、こんなの、卑怯だ……!」 優しくしてほしい、などとは意地が弾けない限り言えやしない。カミーユは言い募る言葉を噛み殺して、ただ一つの抵抗として、シャアの胸を手で突っ張らせていた。 「なら、…君も、私に優しくしてほしいよ。」 図星をさされたらしい、カミーユはグッと喉を詰まらせた。 「『シャア』は『クワトロ』ほど寛容でなくてね。君が許さなくても、『シャア』は君を抱くぞ?…それこそ、血みどろでもね。」 「そんな…、」 「シャアの本気というものはそういうものさ。…しかし、君に優しくしてやりたい気持ちがないわけでもないよ。」 畏怖や焦りで歪むカミーユの唇を親指の腹でなぞり、シャアは妥協案と耳元で囁きながら彼の背を抱いた。 「そうだな。まず…検討違いな嫉妬は、これっきりにしてほしい。」 言外にジュドー・アーシタのことだぞと、悟らせる。カミーユは、彼から与えられた背中に必死で縋り、コクコクと何度も頷いた。 「…こら、カミーユ。怖いからとあっさり降伏するのは感心しないな。」 楽しげに喉を鳴らすシャアの下で、カミーユは(サディスト)だの(変態)だのと悪態を心中で存分についていた。 「そういや…」 ふと思い付いたようにぼやく声に反応して、カミーユの背がしなった。(脅えさせすぎたか?)と、シャアは過敏な彼の背を宥めた。 「そういや、怒っているといえばそうなるかもな……君があまりにも私を知らなさすぎるからだよ。」 「あ、あのッ、」 「いつ、…私が嫌だと言った?」 「え?」 「君から名を呼ばれて『私が嬉しくない』だと、よくも言ってくれたな…カミーユ・ビダン?」 「え?え…だ、だってそれは」 「君の言葉を借りると『好きな人に呼ばれる名に、悪い気はしない』なんだろう?」 「……、」 「君が迷う気持ちもわかる。どれが本当なのかは、私にもわからんさ。」 「……はい、」 「ならば、全て呼んでくれればいい。そのうち本物に当るさ。…なあ、カミーユ、私の名を呼んでくれないか?君の声が聞きたいよ。」 「あ………は、はい!大尉……あ、あれ?」 ククッとシャアは笑った。 「私は『大尉』という名前なのか?」 「あッ、い、いいえ!すみません、クワトロ……ええっと…。」 呼び捨てでよいよ、シャアは焦りにもがくカミーユの手をとった。 「君から『さん』付けで呼ばれると、どうも薄気味悪い…。」 「…!薄ッ気味悪くて、すいませんね!」 癇に障ったらしい。とられた手をとり返して、カミーユは目元を赤く染めた。 「いいな、その勝気は。元気な子は好きだよ。」 「子供じゃありませんって!」 青く萎れたり、赤く脹れたりとコロコロと変わるカミーユの表情を、シャアは「いきいきしている」と愛しみに目を細めた。頭を撫でてやろうとしたが、逆に手を払われた彼は、代わりに鼻頭へ軽く啄ばむキスを贈る。 「それでこそ、私の可愛いカミーユだ。」 拗ねて朱に染まる口元がゆっくりと綻ぶ様は、シャアお気に入りの仕草であることをカミーユは知らない。誘惑を自然と開花させるカミーユへ、シャアは愛しげに悪態をついた。 「卑怯だな、君は。こんなことで、簡単に喜んでくれるなどとは…努力のし甲斐がない。」 (己が己へ嫉妬してしまうよ。…特に、クワトロには、な…。) 寄せる波が潮引く度に、もの悲しくなるのはなぜか。 (だが、ヒトには理性を簡単に凌駕する癖がある…。) そして。 (鳥は、その身を知るべきだろう。) 愛される身の上を思い知らねば、鳥は歌い疲れ、落ちて死ぬ。 (ダブリンの地に膝折った私の絶望を、君は知らないで) |
ジュドーが念仏のように『赤い何とやらには買収されてはいまい』と反復しつつも、彼の自転車が向かった先は家ではなく、その向かいにあるアパートであった。褥での攻防を含め、こちらへの策謀戦でもシャアの勝ちらしい。 「あ、ジュドー。…ど、どうしたんだよ、ずぶ濡れじゃないか?!家出かい?!」 「イーノ、それ違う違う。」 ともかく家へあげてくれよと、ジュドーはTシャツの裾を絞った。ボタボタと滴る雨水の量に「ゲッ」と絶句したイーノ・アッバーブは、慌ててドアのチェーンを外した。開いた勢いで、靴箱の上から制帽が落ちかける。それを紙一重で掬い上げ、ジュドーは陽気にニッと笑って差し出した。 「サンキュー、友よ。」 「……感謝はいいから、服脱いでから上がってよね。」 拭き掃除は案外面倒なのだと差し出された手に、ジュドーは脱いだシャツやズボンを預けた。その上に軍章を縫いとめた帽子を乗せ、彼は思いきり伸びをする。肌寒さよりも、水の重しを取り除いた開放感に首をブルリと振るった。 「サンキュ、イーノ!泥の撥ね返りがベトベトしてさ、気持ち悪いのなんのって…その手、何?」 「それも脱いで。」 イーノが指差したのは、ジュドーの股間だった。 「エ?イーノさんたら、そのような御趣味をお持ちなんですの〜?いや〜ん、エ」 「裸のままで出てく?ここを」 数分後、彼は、水を含んだ分だけズッシリと重い服を洗濯機へ放り込むと、「…で?」リビングに佇む全裸のジュドーへ向き直った。 「冗談抜きで、内股はもういいから。ジュドー、なんで僕ん家で雨宿りなのさ?お向かいは留守?…というか、こんな天気で傘を持たずに君はどこへ行ってたんだい?」 「それ答えたら、風呂入ってもいい?」 小さなクシャミを噛み殺した彼に、イーノは溜息とガウンを差し出した。 「ビデオ返しに自転車飛ばしていたら、どしゃ降りにあってな。カミーユさんたら、オレに傘渡さずにタオル投げ付けるんだぜ!ひどいだろう?!」 「そりゃ、カミーユさんらしいや!」 「そうだな!ハハハ…って、そうじゃなくて!」 しばし二人は子供のように笑い声を上げて、窓を叩く雨音を掻き消した。 「………ま、いいや。」 イーノはストンを肩の力を抜くと息を吐いた。それを訝しげに見上げたジュドーの前で、彼は一度瞬きをして、子供の頃と同じよわり顔で笑みを返した。 「熱いコーヒー淹れておくから、シャワー浴びてきなよ、ジュドー。」 言うと、彼は踵かえしてさっさとリビングの奥へ引っ込んでしまった。残されたジュドーは、風呂場とリビングを交互に首巡らし…結局、困り顔の友人を見過ごせず、ガウン一着で寒さをごまかしてリビングへ向かった。 「なあ、なんか悩みごと……なんだ、アイロンかけてるだけかよ。」 「ッ?!ジュドーッ!勝手にこっちへ入ってきちゃだめじゃないか!」 「うわッちッ!!イ、イーノ、アイロン持ってる手、手を振り回すなァッ!」 「うわッ、ご、ごめん!」 ブルン、と振り回された熱の固まりを間一髪で飛び避け、ジュドーは友人イーノが悪戦苦闘していた手元の奮戦を覗き見た。男所帯なので、アイロン台はないらしい。空いたテーブルの上で白の軍服がもうもうと蒸気を浴びている。 「あ、なんだ。深刻そうな顔してると思ったら、制服の染み抜きかよ。」 「……僕にとっちゃ、かなり深刻なんだけどね。」 「…ふーん、クリーニングに出せば?面倒だろう、それ。」 床にポットやら菓子やらが置きっぱなしになっている。元はテーブルの上にあったものだろう。ジュドーはチップスを一袋持ち上げた。 「クリーニングに出す時にはね、階級章とか飾りボタンなんか全部外さないといけないんだ。つけ直す方が、よっぽど面倒だ。」 愚痴をこぼすイーノの苦々しい表情に、ジュドーは「オレも似たような目にあったことあるよ」と頷いた。そして、始めて見る部屋をぐるり見渡すと、奥の棚に数台のカメラと窓際の望遠鏡に目がいった。自然とジュドーの目が細くなる。 「それで、そんな白い服なんか用意して…結婚式でもするのかい、イーノ君?」 「まぁ、礼服は結婚式でも使うけどね。…今月にある慰霊祭に参加するんだ。」 「慰霊祭?」 自分の住居がよく見えそうなその窓に食いついた視線をイーノへ戻し、拾い聞いた言葉に首を傾げた。 「色んな戦争で亡くなった連邦軍兵士のね。…建前はそうだけど、個人の追悼会みたいになるんじゃないかなぁ……。」 のん気な話だよね、と苦笑いをこぼす友人を見て、ジュドーは常日頃ぼやく政府への恨み節を今回だけは逃すことにした。 「へえ、誰の追悼会になるんだ?」 「…ダメだよ、ジュドー。これ以上は僕の口からは言えない。」 苦しげに言葉を吐くイーノへ、ジュドーは明るく言い放った。 「わかっているさ、イーノ。おまえは軍人だし、仲間には元エゥーゴもいりゃ、元ティターンズもいるし、ブライトさんみたいな昔っからの連邦軍人だっている。…言いたいことの一つも言えやしないってのは、よくわかる。」 しかし、甘える猫のような見上げ方は、「でも、オレ達ダチだろ?」と訴えていた。 「………たぶん、ジュドーの知らない人だよ。」 「なんだよ、それ。たぶんってことは、オレの知り合いかもしれないじゃん?」 せっつく肘の固さに「わかったよ!」と降参したイーノは、アイロンのスイッチを切った。 「ブレックス・フォーラ准将だよ。」 「あ、それは知らない。」 「……だろうと思った。」 スチームアイロンはもうもうと蒸気を噴出している。イーノは、後ろから寄りかかるジュドーの手に届かないところまでアイロンを置いてから、彼へ振り返った。 「誰なんだ、そいつ。」 「お偉いさんだよ。君流に言ったらね。」 「んなの、階級で分かるじゃねぇか。」 イーノは、中途半端に染みが残る礼服をハンガーへ掛け直し、数歩下がったところから見下ろした。腰の位置だから、列に入れば隠れるところだし、周囲の白さより若干浮きあがって見える程度だ。「…白くしたいんなら、歯磨き粉でもすりこんどけば?」と背に擦り寄るジュドーは、まだ諦めてないらしい。 「…エゥーゴの指導者だった人だよ。」 「あれ?そんな人いたっけ?」 「僕らがブライト艦長と出会う前の戦争の時さ。」 「れ…?え、待ってくれよ、イーノ。だってさ、シャアが勝手にどっかへ行ったからエゥーゴはガタガタになったって、ブライト艦長グチってただろう?」 「うん。だから、その前の指導者だよ。ティターンズに暗殺されたんだって。」 「ティターンズって、本当に悪党だったんだな。」 ジュドーの他人事のように呟く様を、イーノは非難するように鼻をこすった。 「まぁ、僕らがいたサイド1は地球から見捨てられていたから、ああいう情報にはとんと疎かったんだしね……。」 「なにしみじみ言ってんの、イーノ。」 もうこの話題には飽きたのか、ピッと菓子袋の封を開け、ジュドーはチップスを齧った。 「………そういや、オレ、腹へってたんだ。」 「…今まで感じたことなかったけれど、ジュドーは刹那的だよね。」 「ん?」 「……ううん、なんでもない。そのままの君でいてほしいってだけ。」 「ふぅん…んじゃ、オレは『そのまま』で風呂入ってくるわ。」 友人の苦笑を意に介さず、ジュドーはチップスの袋を抱えたまま風呂場へ入るつもりらしい。イーノは慌てて、彼の後を追った。 「ジュドー!お菓子を持ったまま風呂に入るなって!」 結局、湯と食で身を内外から温めようとしたジュドーの思惑は、一歩手前で奪い去られたのだが、その代わりとして握り締められた缶ビールをチビリチビリと飲みながら、ジュドーは思った。 (こいつも色々苦労しているんだろうな、オレ達のことで。) ひょろりと木のように高い旧友の背を見つめ、ジュドーは「ごめんな」とその背に感謝した。飄々として話の腰を折ったのは、イーノがそれ以上語りたくなさそうにしていたからだった。目をチラチラと横に避ける癖をジュドーは長年の付き合いで見逃さなかった。 「ブレックス……フォーラか、」 どんな男だったのか。軍の幹部といえば、狸が人の皮を被ったような連中しかジュドーは知らない。 「アンタが生きていりゃ……や、それは無理な相談、」 ザブリと湯船に顔を押しつけて、ジュドーは水中でうめいた。 (イーノも同じことを考えていたんだろう…。) ぼんやりとアイロンがけをしていた友の頼りない背中を思い出す。 やりきれない気持ちがこみ上げる。 感傷は十分だ。昔に思いを馳せたって、どうにもならないことは身に染みている。ハマーン・カーンの最期を見届けた十四の歳で、ジュドーはそれを悟った。 が、それでも、やりきれない感情がこみ上げる。それもまた、人間故の不条理さなのだと、ジュドーは知っていた。 「……知ってんのかな、あの人ら。」 土曜の朝がくる度に、胸に燻る熱が切っても切っても消え去らない矛盾を教わっていたから。 *[ポレミック/polemic] 論争。または論争好き。〜である人のこと。 |
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