* pay pathos squall -a/b/c/d/e/fin *



 まだまだ信号は変わりそうにもない。車道をバシャバシャと景気良く水跳ね飛ばす車の流れに恨めしそうな目を送りつつ、ジュドーはこの後どうしようかと顎に滴る雨水を拭った。
「帰るにもこのどしゃ降りじゃあなぁ…。やっぱ、いつもどおり朝飯食ってくか…一時間くらいしたら、やむだろうし…。」
 飯、というジュドーの言葉に呼応して、ググゥ…と腹の虫が鳴った。
 土曜の朝は、飯にありつく前にビデオ返却へ駆り出されるものだから、毎週彼のすきっ腹はビデオ店に近いカフェで満たされていた。そして、そこでのんびりと時間を潰すのだ。…正午までのひとときを気がねなくふたりが過ごせるように、平日は仕事で忙しい彼らへささやかな余裕をあげるためにと。
 カフェでの数時間は、時にカミーユから教わった勉強の復習をこなしたり、本を読んで暇をつぶしたりもする。普段の彼らしからぬ、おとなしい事柄ばかりをする。…それも仕方ないことかもしれない、家で、ふたりが何やっているかをジュドーが知ればこそ。

「………………」

 白。黒。白。黒。…ペールグリーンの視点が、転々と路上の横断歩道を飛び石のように辿っていく。
 ジュドーの中のカミーユ像というものは、大切にしたい憧れの初恋から、こまっしゃくれた口と頭の立つガキみたいな青年へとごく普通な観察眼、もしくは世俗的なものへ色褪せつつあった。
 そうでなくてはならない。でなければ、正気でいられるはずがない。……一時的に、とはいえ…一つ屋根の下にだ、思い人とその愛人と、思う人つまりジュドーの三人が住んでいるこの環境は、傍目からでも精神衛生上健康的ではないだろう。
 ジュドーはカミーユが好きで、カミーユはシャアに惚れていて、シャアはカミーユを…今度こそ手放さないように大切に包んでいる。昔はともあれ、今のふたりにはジュドーのつけいる隙などありゃしないのだ。…とっくにフラレタ恋心ではあるが、地球で再会した彼らと少し話しただけで、ジュドーの身に燻っていた未練はあっけなく砕け散った。
 砕け散ったといえば、数年前に月と木星との通信で彼らと話した時だ。互いが立体ホログラフ映像な事をいいことに、ジュドーはシャアを殴ろうとした。怒り半分、打算半分の拳を彼はシャアへ振り上げた。通信映像なのだから、痛みは伝わりはしない。もし、シャアが拳を避けたのならば、奴はいくらの価値もない弱虫なのだとカミーユへ示す皮肉にできる。まま受けるなら、少しは自分の気が晴れると彼は計算していた。…ところが、その拳を受けたのは、脇から飛び出したカミーユであった。これには、ジュドーも、シャアも、あっけにとられた。
 そもそも、月と木星という星間距離で、殴打のダメージが光のように伝わっていくのだろうか?…しかし、冷静に考えるには時は短く、実にタイミングよくカミーユの体へ映像の拳はめり込んでいったのだ。しかも、カミーユの体は宙へ吹っ飛んだのだから、彼らは青ざめ、彼を受けとめようと合い争って腕を差し出した。
 …むろん、受けとめたのは彼と共に月にいたシャアであったが。
 シャアを庇ったカミーユの所作は、受けとめられなかったジュドーの腕にとって手痛いしっぺ返しになった。

 ここまでくると、恋の思い出はもはや昔バカ話だ。
 ジュドーは、カミーユに憧れていた。そして、実は憧れ以上に惚れていたと気づいた時には、その憧れの人は恩師に目も当てられぬほど骨抜きにされていた。
 最初に出会った時の心患いに臥せったカミーユからして、彼の心は体を抜けて行方不明の上官を探し、宇宙をさ迷っていたのかもしれない。空手をやり、エゥーゴの主戦力パイロットだった経歴を持つ肉体は、ジュドーが目にした時は蚊とんぼのように細かった。事故から数日後というのにも関わらず、衰弱した体つきに変貌したカミーユの理由には、複雑な事情が色々とあったのだろうな…とジュドーは雨空にポツリと漏らす。
 つまり、出会いが遅すぎたのだ。…といっても、早かろうとも、彼が振り向くとは到底思えないジュドーではあった。一度体を繋げはしたものの、肩が擦れ合うほどの心のざわめきも起こらず、カミーユはなびかなかったのだから。
 遠く離れた師弟の間に、複数の戦争と命の悲劇が流れた。しかし、ボロボロに傷つきながらも結局、無くしたものを勝ち取ったのはカミーユだった。無謀なひたむきさでもって、シロッコを倒し、プルを助け、ジュドー達を援護し、ハマーンを退け、たくさんのひとを助け、地球に涙し、重力の井戸からシャアを引き上げ、クワトロ・バジーナをその手に取り戻した。
 親を泣き求む幼子の不器用さと健気さを抱えたひとだと、ジュドーは感じていた。同時に、素敵なひとだとも、守ってやりたいとも、深く芯のある優しさに憧れなんかも抱いていた。
 だが、それはシャアに惚れているカミーユだからこそ…と、大人になって思い至り、夜の木星でひっそり男泣きしたものだ。

 今のジュドーにとって、カミーユは元初恋で、今は兄貴のようなダチである。
 カミーユがジュドーを生意気な弟のように思うのと、ほぼ同じように。

 実のところ、かつて体を合わせた頃があった。
 ジュドーが五体満足で同棲していられるのだから、おそらく、このことをシャアは知らないのだろう。
 それは今から浅い過去で…シャアがまだクワトロ・バジーナと呼ばれており、その彼が行方不明だった時期、ジュドーがハマーンの率いるネオ・ジオン軍を潰して…木星へ行き三年後に月へ戻ってきた頃だった。
 現在から遡れば、宇宙世紀九十二年始めの頃、シャアがコロニー難民を率いる反乱より一年も前の話となる。木星へ旅立つ前の約束通り、三年後に月でビーチャたちと再会した。そして、彼らと酒盛りした翌日に、木星開発公団の船は地球へ降り、ジュドーはカミーユと再会した。カミーユにしてみれば、ジュドーとは初めてまともに出会ったのだろう。約束も策謀もなく、ただ偶然の絡み合わせで検疫室で鉢合せた彼らは、過去の戦話のやり取りの為に夜と酒を肴にした。
 それから…いつしか酒に飲まれたジュドーが彼を組み伏せたのだ。その辺りの経緯は覚えていない。がしかし、木星で積もり積もった熱情を、カミーユはただ静かに受けとめてくれた。
 …ただ、受けとめてくれただけだった。苦痛に歯を食いしばる彼から流れ出る感情は、彼を抱くジュドーへ色々な言葉を知らずに投げかけていた。彼はほんの僅かな快楽を感じながらも、圧倒的な痛みに耐えていた。同情や身代わりとか、鎮魂、刑罰、自責の念ばかりを身に纏うカミーユに触れることは、ジュドーにとって、甘美な肌であり、針のむしろのような気持ちでもあった。この時ほど他者と共感しあえるニュータイプの力を恨めしく感じたことはなかった。
 しかし、絶頂の間際、カミーユの態度が柔らかくなった。突然、甘えるように、痛みに号泣しながら、かの人は甘えるようにジュドーの肩へ擦り寄ったのだ。意外な軟化にジュドーの中で暖かな情が芽生え始め…瞬間、細い思念がある名前を呼んだ。甘さを味わい、温もりの中に埋もれていた悦楽の時間が一瞬にして灰塵となった。
 思い人は、ことさらやさしく恋情の卵を握りつぶしてくれたのだ。自覚なくのばした掌で、いるはずのない人間の温もりを求めることによって。
 あの時、カミーユの首に手を掛けた衝動は殺意に似ていた。否、まぎれもなく、殺意だった。
(俺が悪い。グシャリと、俺が潰したからだ。)
 全てが終わって、ものすごく惨めな気分に陥った。泣き出しそうなジュドーを、彼は何故かあっけらかんと「気にするな」と言った。見上げれば、痛みを堪えたか細い笑顔で抱きしめてくれた。「おまえは何も失っちゃいない」と背中を擦ってくれた。温かい手が、ジュドーの熱を誤解から派生したものだと、優しくなだめてくれた。
 カミーユは、無理やり抱かれた彼は、自分の思いに気づいてない、もしくは、わざと見過ごしているのだとその時の己は俯いた。あまりに優しすぎて、そして一方的に投げられる言葉だからこそ、ジュドーはこの恋に勝ち目がないことを早々に悟ってしまった。
 『恋は盲目』とはうまい表現だと、傷心にうなだれながら感心してしまった。
 恋する人に恋心を語りかけたところで、耳を傾けてくれるどころじゃないのだ。

 それからしばらくして、例の戦争が始まり…終わり間際に木星へ引き帰すジュピトリス二号へ星間通信が入ってきた。当時ロンド・ベル隊を指揮していたブライト・ノア大佐がジュドーの安否を尋ねるだけに連絡してきたのだ。苦戦する盟友を援護しようにも船が地球から離れすぎたことは、ブライトだって知っていた。
 苦汁に満ちた彼から「カミーユがシャアの元へ下った」と聞き、目が飛び出るほど驚いたものの、ジュドーは「ああそう」としか返す言葉がなかった。また、その言葉を聞き、彼がわざわざジュドーの居場所を確認した意味も理解した。これ以上、知り合いが裏切り者になる痛みを抱えたくないのであろう、彼は。ブライトはヤワではないにしろ、タフでもない。
 通信を切った時、ジュドーはカミーユのせいいっぱいの笑顔を思い出した。悦びに理性の箍が外れた彼が見つけた真理、そして驚きから笑みへと移っていった切ない涙。

 羽化したものは、カミーユの方だったのか。
 人肌に餓えた者同士がお互いの殻を抱き、潰し合った。
 カミーユは恋情の卵を握りつぶし、ジュドーへ再び自由を与えた。
 ジュドーは狂うような悦楽を叩きつけて、カミーユの固い殻へヒビを入れた。

 真空の闇に轟くはずのないショック・ウェーブが、銀の羽根を舞い散らす。
 いとおしくも頼りなかったあの眼差しは、夢から醒めた。
 きっかけは己にしろ、カミーユは自らの足で進んだのだ。
 後ろ向きの季節が虚ろであるように、恋は死んだのだと。

 見た事のない状景に、ジュドーは思いを馳せた。
 流麗にモビルスーツを駆り、ソラを自在に飛ぶカミーユの瑞々しさを。
 あの頃、ジュドーはまだシャア・アズナブルを見たことはなかったし、色々な情報を取り寄せても、彼をそこまで駆りたてる男への想像と現実が結びつかなかった。…そして、カミーユがブライトやアムロ・レイの敵に回ることさえも。
 しかし、豆粒ほども地球が望めない距離まで逃げ去った船の窓から、ジュドーは勝利の羽音を確かに耳にしていた。
 それは、戦いの季節が去る足音でもあったのだろう。
 しばらくして、疲れた声のブライトが終戦の報告をわざわざ届けてくれたから、真実、戦争は終結したのだとジュドーはモニターの中の地球を見守ったものだ。



 パチリと瞬きして、睫に乗った雨粒をジュドーは回想と共に振り払う。
「ああーヤメヤメ、なんだかドツボにハマリそうよ、オレ。んなの、らしくないっての!」
 こんなところで足止めくらってるから、イヤなことを思い出すのだと、ジュドーは前方の赤信号を睨み、なにか頭の話題を変えねばと必死になって、道端を、そこらじゅうをめまぐるしく見回した。…が、面白そうな看板もなく、ただ雨がザバザバ降り敷きり、車は無感情に通りすぎるだけである。
「あ、…そうそう、あのふたりって何借りたんだぁ、今週は……」
 話し相手もいないのに、わざと声にして、ジュドーは手元のレンタルビデオ達を見下ろした。いうなれば返却代理者の特権だ、プライバシーだかレシーバーだかは脇に置いて、と、彼は気分転換に袋からそれらを取り出した。
 …はいいが、すぐさまその目は点になった。

 二本しか入ってないのは、シャアの方だ。なぜだか、いつも二本借りてくるあの男が借りた物といえば…『嵐が丘』と『ローマの休日』。
「タイトルだけじゃ、わかんねーよ!」
 が、うってかわって、カミーユの方はある意味…
「タイトルだけで、わかっちまうってのもな…ぁ…」

『特集!救急センター二十四時間密着取材』
『プロジェクトX〜MSに賭けた月の男たち』
『八乙女亀甲縛り首』 『お艶Y談』 『ドラえ○ん』

(あぁ〜あんなだけど…そうだよな、あの人だって、男だもんな…だもんなぁ…)
 それでも見たくはなかったと…ジュドーの脳裏に『八乙女亀甲縛り首』と『お艶Y談』のタイトル文がぐるぐーると巡っている。これがダチのビーチャやモンド達が借りたものならば、自分も見たいなぁ〜とうきうきするものだが、今の気分は百八十度違っていて、まさに『息子の部屋でエロ本みつけた母親』気分である。男心だって、複雑なのだ。患者か医者仲間の入れ知恵と疑ってみても、鬱気分はすぐれない。
 妹リィナの部屋で男の下着を拾ったとしても、こんな気持ちになるのだろうか……と、現実と信号から目をそらして、彼は切なさを抱えた。

 信号がようやっと変わった。
 ジュドーは慌てて、それらを袋へ入れ直し、再び上からタオルを掛けた。雨はまだ降り止まない。ジュドーは一気にペダルを漕ごうとして、道端のぬかるみに足を突っ込んでしまった。雨と泥を被って、ズボンの裾はやるせない。さっさと帰って、風呂に入りたいと思ったジュドーは…不意に甘ったるいイメージを感じて、頭を振った。心なしか、股が辛いのだが。
「えー、ナニ?オレのツボって、バスプレイなワケ?……ンなわけナイかッ!」
 独りボケのツッコミをセルフサービスでこなし、ジュドーは自転車を突っ張らせた。レンタルビデオ店まで、あとわずか百メートル、あと二分で終わる。


「…というか、本命はどれよ?カミーユさん」
 ふとボソリと呟いた疑問はビデオか、好みか、どのことを指していたのか、それは、言った本人もよくわかっていなかった。


 ふたり分の汗が染みこんだシーツから愛しさを引き出すと、シャアの手に引き上げられるカミーユの柔肌となる。肩の肉をはみながら、シャアはチラリとカミーユのふるえる喉を鋭く見つめた。
「…カミーユは…よほど私を『シャア』と呼びたくないらしいな?」
「そんなことは…だって、それも偽名なんでしょう?」
「ああ、まあな。それを言えば、『クワトロ・バジーナ』とて偽名だぞ?」
「……偽名であっても…以前に話したとおりです、僕はあの時の貴方が素の貴方だと思うから……僕にとって、貴方は」
「『クワトロ・バジーナ』…か?」
 こくん、と幼げに頷く愛らしさへシャアは手を伸ばし、やんわりとその頭をかき抱いた。
「もう一度言う。カミーユ、クワトロ・バジーナも偽名の一つなのだぞ。」
「…わかっています。でも、俺が始めて出会った貴方は、クワトロ大尉でした。シャアも、キャスバル・レム・ダイクンも、俺は出会ったことがありません。だから、貴方にとって嘘でも、俺には本当なんです。」
「…本当、か。」
 真摯な答えに、彼は興をそそられた。
「正直に…話せば、私は好きではないな。」
 抱く肩がビクリと震える波を感じつつも、シャアは言葉を止めなかった。また、彼の動揺さえも包みこむように束縛する腕に力をこめた、(信じろ)と。
「あの頃の私は迷っていた。弱い自分は好きになれないものだ。」
(私を信じろ、カミーユ)
 だがしかし、その一方で彼を試すような悪戯をしかけて困る様を見守る天邪鬼な己の気質をシャアは楽しんでいた。
「父が死んだ後の十年、ザビ家を倒す…その私怨で生きていたからな。一年戦争が終結した後、私にはするべきことは何もなかったのだよ。」
 腕の下で、クスリと緑青(ろくしょう)色の瞳が笑った。懐かしそうに目を細める。
「だから…ああだから、『それしか食う術をしらないのさ。だから、嫁さんももらえん』…なのですね。」
「ん…よく覚えていたな…。」
「貴方が、あんまり馬鹿な返事をして、僕の質問をはぐらかすからですよ。あの時、本当に困っていたのに……、あ!」
 額に振りかかる癒しのキス、耳元で低く掠れる謝罪の「すまなかった…」、淡く澄んだ快晴の眼差しに……カミーユの意地悪げに噤まれた唇も花開くように綻び始める。水を求む花弁に似た舌をささやかに差し出し、目元から頬へ伝い降りるシャアの唇を受けとめようと、彼は小首を傾げた。
(キスが、この人のキスが欲しい)
 ぽつりと願ったことを、自然に与えてくれる。心地よいのだ、この人の優しさは。
 深く、浅く、貪るように撫でられるように舌を絡ませ合い、吐息のリズムで名を呼ばれる。カミーユ。カミーユ。低くかったり、ハイトーンに舌から伝えたり、苦しげに呼ばれたり、愛しげに呟かれたり…カミーユ、同じ名を幾通りもの感情のせて囁く声の愛撫はなによりも身に染みて、むず痒い愛しさの痛みを残す棘となる。
 思い高ぶる分、相手へ返してやりたい、思い知らしめてやりたい…カミーユは彼の慰撫に答えるように肩を波打たせ、舌を従順に差し出し、腕を首へ絡ませ、背に爪立てる。シャアの背を彩る傷は、彼に許された者の爪から生まれた。

 けれども。

 とん、と軽く肩を叩かれ、シャアは彼の体を少しだけ手放した。口端に伝う唾を拭い、少し息切れぎみなカミーユを見下ろしたシャアは、訝しげに眉をしかめた。
「カミーユ?」
 細い顎を手にとり、上向かせれば、スルリと眦から涙が滴った。
「僕は…」
 意外そうに目を丸くするシャアを見つめ、カミーユは嗚咽をこぼした。
「貴方は僕を呼ぶ。僕は…貴方をどう呼べばいいんだろう?」
 ああ、と彼は納得したように溜息を零す。わずかに安堵の匂いを漂わせ、シャアはカミーユの涙を拭った。
「『シャア』とは呼べない君の気持ちは分かる。だが、あれも私の一部だ…」
「シャアは、怖いから…ッ!」
「怖い…?」
「そうですよ!シャア・アズナブルは、誰彼にも怒ってばかりで、他人の命をまるで…ど、」
 そこまで言い募り、我に返ったのだろう、カミーユはハッと語尾を飲みこんだ。しかし、蒼白になる頬を見下ろすシャアには彼が言わんとす物事全てを承知していた。今ここで、カミーユが悔やむことでもないと分かっている過去の愚かな自分だ。大切な彼さえも、戦局を覆さんが為に道具として扱ったことさえある。
(だから、君は…私をクワトロ大尉と呼ぶのだな…。)
「わかった…『シャア』も優しくなるよ、カミーユ。」
「ああ…あぁ、違う、違うんです。そうじゃないんです…!」
 肩を慰撫する手を払い、カミーユは頭を振った。また彼が泣く。
 シャアは、浅はかな己へ舌を鳴らした。彼に甘えるからだ。本音とはいえ、もう少し言い方があるものを、カミーユならば全て許されると思い込み、彼を試し、彼を傷つけた。全てを受けとめても、痛いものは痛いのだ。
 シャアは、未だ手に入れきれていないカミーユの深さへ怖れを覚えた。その胸が感じる震えは、片思いの者が抱く切なさにも似ていた。
(君に触れれば…)
 だが、迂闊に触れることを許さぬ空気がシャアの手を躊躇わせていた。
 シャアはカミーユの泣き顔を痛ましそうに見つめ、掌程度の僅かな距離を置いた。彼は爪を噛み始め、それをシャアは混乱した思考をまとめるための癖かと静観した。

 肌を触れ合えば、深く刺し貫けば、カミーユの許しさえあれば、シャアは彼の考えをありのままに汲み取ることはできた。ニュータイプ能力者であるカミーユの力と、彼と波長が合う自らの力量の賜物だ。時に、それが元で大喧嘩をすることもあるが、シャアはそれもレクリエーションの一部と考えるようにしている。
 カミーユは、コミュニケーションに優れたニュータイプである。的確に全包囲から敵を捕捉するアムロ・レイを人間レーダーと例えるならば、一方的な話しかけではあるが、オールドタイプとも意思交感できるカミーユはトランシーバーのような存在である。サイコ・フレームの普及により、その力は顕著になっている。
 だからこそ、彼の内面を大切にせねばなるまいとシャアは思っていた。語らずに相手と話す…それはつまり、思うこと、心を暴露するようなものである。嘘が上手い人間ならばよいが、そうでない者にとって、プライバシーもなにもあったものではない。そんな能力があれば、自然と口が重くなることは当然であり…比例するようにストレスも蓄積されていく…。
 彼の許しなく、シャアがカミーユの心を素手で触れられるのは、彼と体を重ねた時のほんの僅かな隙間、快楽の絶頂にカミーユが忘我した瞬間のみである。シャアは、彼の無意識が放つ刹那の甘美を味わいつくす一方で、悦びに震えるかの心に少年期の名残を残す脆さを見つけては憂えざるおえなかった。
 確かに、カミーユは壊れた心を治しただけでなく、輪をかけて強く成長したとは思う。ネオ・ジオンと地球との戦いで偶然にも再会した時、彼とモビルスーツで戦い、その戦いぶりに、愛機と共に蘇った彼の強靭な精神力をシャアは痛感したものだ。しかし、それとこれとは違う。やはり、彼の中にはカミーユの本質ともとれる「危うさ」は居残っている。それは、彼の心の痣である。一生取れぬであろう、でなければ…。
(カミーユは私を頼らんだろうし、私もとっくに彼を手放しているさ。)
 だが、壊したいわけではなく、守りたいのだ。グリプス戦役でのヘマは二度と踏むまいと心に誓うシャアは、辛抱強くカミーユの言葉を待った。
 ここは、地球だ。そして、空気はあり、ノーマルスーツなどいらぬ。素肌で過ごせる空間だからこそ、意思を伝えるに余分な『力』はいらない。千年前と変わらず、言葉でいいのだ。
 ありのままを正直に話すならば、オールドタイプやニュータイプなどと進化の境を無理矢理作る必要はないのだと彼から教わったのだから、シャアはそれを実行しようとした。つまり、『待つこと』にしたのだ。

 やがて、薄桃の爪から離れたカミーユは、爪の代わりに空気をゆっくり噛みしめて言葉を紡いだ。
「僕は…自分の名前が嫌いでした。」

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ペイ・ペーソス・スコール/c

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