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カンタータ。
・--2002/8/7/23:57
[(イタリア) cantata]
一七、八世紀のバロック時代に発展した声楽曲の一形式。独唱・重唱・合唱と器楽伴奏より成り、歌詞の内容によって世俗カンタータと教会カンタータとに分かれる。交声曲。
-------「goo/国語辞典」より転載。--------・


…いえね、夏だから、
夏→アイスネタでGO!→タイトルは?→「アイスクリーム・???」→「こぅ…語呂のイイ奴は…」
 ↓
で。考えたのは
アイスクリーム・カンタータ


・・発想に意味はありません、一発芸のようなものです。「アイスクリーム賛歌」とかいう童謡か小説があったような記憶が…(((._.))
唐突なタイトル付けってのは、私の癖だからよいとして…「カンタータ」ってのは何だっけ?(爆)
〜で、調べたのが冒頭のアレです。
「うわー、教会音楽?似合わねー」(なので、改題検討中)

…にしても、ちょっとバロック音楽は好きなので、興味そそられて音楽系HP巡りとチョコッとだけしました。
……対訳歌詞に興味そそられまくり。
教会音楽ってのは、つまり、キリスト教の集大成なので「崇め奉れ、神よ」な色がプンプンしてます。無心論者な私としては(個人的に)好かん部類のものであるが、その神に縋り信じる人の心ってのが、曲調にひしひしと感じられて、「信じています」ってイメージは好きなんですよね。
神の万能は嫌いだけど、信じたいと祈る心の優しさは好きだなぁ…。

…と、ふと、ここで、対訳歌詞を観ながら、ちょっと理解したものがありました。
他ジャンルのお客さん、ごめんなさい、ガンダム話なんですよ。
「ええッ?!またァ!!」〜な声が聞こえそうです。ゴメン、ゴメンよ〜私の萌えの原点だから、ちょっと長く語らせてください。

劇場版『逆襲のシャア』(CCA)にて、製作スタッフが考えたシャアと本編は、つまり、信ずべき神のいないスペースノイド達が決起した宗教色濃い反乱だったのだと。

本編で、シャア曰く道化た演説の末尾で
「そして、私は、
 父、ジオンの元に召されるであろう!」
と締めくくられた部分。

私は、これがとても不可解かつ稚拙な言葉と思っていました。曲解しなくとも、これは「シャアが自らの死をも賭けて起こした反乱」だと言いたいらしい。
しかし、CCAでのシャアの行動は、過去の初代〜Zからみても一番生き残ることに固執していた。
これを聞いた瞬間、私なぞは「シャア、アンタ、末期ガンにでも患ってるの?」とポソリ呟いたものだ。

では、この言葉の意味することは?
こう言い替えられないか?
「父、ジオン」=「神(スペースノイド達の)」
こうすると、彼の演説はしっくりとくるのだ。そして、狂信的なイメージが沸いてくる。恐ろしいことに。
ならば、「ジオンの息子=シャア=神の子=キリスト」なのか?
…それは、半分正しくて、半分間違っているのだろう。

地球(アースノイド)に迫害され続けた宇宙移民者(スペースノイド)にとって、地上の神は頼るべき存在ではなくなった。その歴史の中で、スペースノイドの中にこそ、人類の新化種ニュータイプが誕生、覚醒するのだ、だから人類は宇宙へ上がるべきと希望論(コントリズム)を提示したジオン・ダイクン。
スペースノイド達にとって、彼の理想はまま希望の光であった、彼の言葉は頼るべき神の声に聞こえたかもしれない。
そして、実父ジオンの遺志を受け継いだ(かに振舞った)シャアの存在と彼に宿る強い実践力は、スペースノイド達にとって、救世主に見えた。

しかし、シャア本人にとっては、父ジオンは理想主義者であり、スペースノイドへ捧ぐ新たな宗教の創設者としか思ってないだろう。
息子は、自分の体が血肉であるを知り、その元となった父もまた、ただの人間の肉であったを知っていた。素晴らしい希望を打ち立てた人物とて、神にあらず…そんなことは冷徹な目を持つシャアならば知っていることだ。

だからこその、「私は道化を演じるわけか」…か。

おそらく、彼は、私と同じでロマンチズムを思うも現実主義者であり無神論者、そういった矛盾を抱えるひとではないかと思う。
つまり、宝くじを買っても、神頼みしない人。

しかし、彼は、民衆から頼られたら断れなかった。「Z〜36話:ダカールの日」で世論を味方エゥーゴへ付ける為に、彼は父ジオンの名を出してしまったからだ。結果、地球&宇宙でのティターンズの支持は減退していった。だが、そのツケを払うこととなったのが「CCA」そのものなのだ。

シャアの半生は、父ジオンの影がたえず落ちていたのではなかろうかと思ってしまいます。
だからこそ、愛人ナナイ・ミゲルへ「名を継ぐのは重たすぎる」と愚痴を零すのでしょうし、総帥名をシャア・アズナブルで通した理由も、シャア時代の実績を利用する以外にもあったのだと思います。

息子は、偉大な父へ敬意を払っていた。
しかし、同時に憎しみを抱いていたかもしれません…己の人生を破綻させた相手として。だから、彼は、自分が無条件で縋れる親の片割れ、母を求めたのか?

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この世の私の人生の歩みは船旅に似ている。
悲しみ、十字架、苦しみの波が、私をおそってきて、死をもって、私を日ごとにおびやかす。
しかし、私を繋ぎ留める錨は、しばしば私を喜ばせてくれる神の慈悲である。
そして、神は私に呼ばわる、「われ汝とともにあり、われは汝を見捨てたり忘れたりしない」と。
そして、怒り狂った嵐が終わりに至らば、私は船をおりて、わが都、すなわち天の王国に入らん。
そこで私は信仰深い者たちとともに、多くの苦難から逃れることができるだろう。

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J.S.バッハのカンタータ
「我、喜びて十字架を背負わん」より。

「錨=**ー*」だと、私は嬉しいンですけどね。


↓*カンタータの詳細は、こちらのHPでご覧あれ。

http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/



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素材元 [Little Eden]
*雑記『本日乃言葉』よりリサイクル掲載です*